クリニック通信
2026年9月1日救急にまみれた39年
こんにちは。猛暑日が続いていたと思ったら一気に秋の気配。ホッとしたというよりびっくりしましたね。庭のポーチュラカも戸惑っています。季節の変わり目が要注意。体調は大丈夫ですか?う~ちゃは「う~ぱ~」とか「パチャコン」とか言いながら元気です。

今回は以前「新着情報」でお伝えしたものに加筆修正を加えたものです。
1昨年の秋、令和6年度救急医療功労者知事表彰を授与されました。表彰式なんて中学校の卒業以来です。高校は2000人超のマンモス校で手渡しなんてあり得ないし、医学部の雰囲気になじめなかった大学はそもそも式に出たんだかどうだかさえ覚えていません。午前の診療が終わってすぐに車で県庁に向かいました。医師・看護師・救命救急士など医療者が13人。簡単なリハーサルの後、テレビでしか拝見したことのない大井川知事から手渡しの表彰式です。「以下同文」のあっさりしたものでしたがちょっと照れました。晴れた県庁の展望台は見晴らしも良く、せっかくだからのんびりしたいなあと思いつつ午後の診療のためにトンボ帰りしました。
筑波大学医学部にぎりぎりの成績で入学してぎりぎりの成績で何とか卒業して、筑波大学付属病院小児科に入局しました。研修医としては当時普通だった休日のない1日18時間のブラックな労働に励み、会議室の椅子で寝泊まりしていました。時給換算400円相当の初任給で事もあろうに高いギターを購入し、せっかく「お医者さん」になったのに毎日納豆と当直室のお菓子で過ごしました
全ての行為に緊張した診療でしたが、それ以上にストレスだったのは抄読会(勉強会)です。渡された英語の論文を読む時間も気力もなく、要約だけ読んでグラフや表を切り貼りして体裁だけ整えてみましたが、教授に突っ込まれてすぐバレました。今も英語はコンプレックス。学生の間に英語をもっと頑張れば良かった。
1年間大学で心臓や血液など小児科専門診療だけ研修して翌年4月、地方の総合病院に赴任しました。一緒にお仕事させて頂いたのは当時研修医3年目と講師の先生。お二人ともその後教授に就任されました。非常に優秀な先生方に恵まれたものの、研修医制度はまだ確立されておらず、赴任早々待っていたのは全館一人当直です。子どもの風邪薬さえ出したことないのに、高齢者の心不全から交通外傷さえ診なければなりません。大きなバッグに診療の手引きなどを大量に詰めこんで救急外来に向かいました。当直日は不安しかありません。救急搬送依頼が来た瞬間に先輩先生に連絡してしまいました。「どうしたぁ?」、「救急車が来るんです」、「どんな患者?」、「いや、まだ来てないから分からないんです」、、、。先生方には本当にご迷惑をおかけしました。外傷は看護師さんからこっそりと針の持ち方を聞いて縫い、翌日外科の先生に怒らました。診る方も診られる方も災難な研修医2年目でしたが、ここで必死に学んだ経験が私の救急診療の根っこになったことは間違いありません。
6年の研修期間を終えた翌年に筑波メディカルセンター病院小児科診療科長に任命されました。つくば市の中心的な救命救急センター病院です。当時のメディカルは「生き地獄」と呼ばれて誰もが敬遠するところでした。断らなかったのは教授の命令に断れない小心者だったから。1次から3次までの救急を365日24時間全部受けなければならないのに、当時はたった2人の小児科医しか居らず、週1回午前だけ大学から非常勤の先生がお手伝いに来る体制でした。1日おきのオンコールでは毎回20時と23時と3時頃に呼び出しを受けて、重い疾患が来ると泊まりっぱなしです。それがひっきりなし。日曜祝日は朝から晩まで1人で救急外来診療を行わなければなりません。重症患者搬送のために救急車にもヘリコプターにも何度も乗りました。申し送りが遅れて帰りに乗り損ね、寒空を白衣姿でとぼとぼ電車で帰ったこともありました。

色々な病気を経験しました。髄膜脳炎症状で7年前に失くしたと言うお箸の先っぽが頭のCTで見つかった時には驚きました。日本旅行中の外国籍男児が突然の喀血と腎不全で飛び込んできた時は英語でどう説明したらいいのか頭の中が真っ白になりました。熱帯熱マラリアの治療薬を東京慈恵会医大まで直接取りに行ったこともあります。病院に到着した途端に呼吸が止まり、腫れあがって殆ど見えなくなった気管の入り口に未熟児用の細いチューブを差し入れて救命した時は足が震えました。ICUの半分を小児患者が占めたこともありました。ヒヤヒヤしたことは数知れません。助けられなくて無力感に苛まされたことも何度も。筑波大学病院小児科の先生の元に何度も相談に行きました。親身になって相談に乗って下さった先生方には感謝しかありません。きちんとした研修を受ける機会がなかった私は現場で経験して本を読んで覚えるしかありませんでした。研修先でスキルを充分に学ぶことの出来る今の研修制度が本当に羨ましいです。
そんな生活が17年、転機は新型インフルエンザ流行期に訪れました。1日240人の救急受診で外来は溢れかえり、通路からは「まだ診てくれないのか!」と父親の怒鳴り声が聞こえてきます。殆どが軽症でしたが、保護者の不安は強く、仕事や経済的にやむを得ない事情で通常の診療時間に受診できない方も少なくないので「来ないで」とは言えません。ただ、この状態では重症者に適切な診療ができず医療崩壊してしまいます。一次診療機関(クリニック)で軽症を振り分ける必要性を痛感しました。
一次医療の最前線で救急病院の外来緩和と不安な方の受け皿を作るために2011年に開業しました。隔週で日曜診療をして、仕事が終わって受診される方が救急病院に流れないように少し遅くまで診療し、筑波メディカルセンター病院小児科救急外来当直にも参加しました。開業医生活の厳しさは想像を遥かに超えていました。たった1人で大勢の患者さんの対応に追われるので朝から晩まで息をつく間もありません。痙攣重積やアナフィラキシーで診療が中断されると待合室は溢れます。気難しい方や心配が強い保護者も少なくありません。誰も守ってくれない開業医は万一でも事故があると終わってしまいます。心無い口コミ一つで患者さんは来なくなります。ストレスを溜め込みながら毎日12時間、休診日は学校・園・市の集団健診など診療外業務で埋まり、残業時間は月100時間を超えました。
それから更に15年、筑波メディカルセンター病院の小児科医は9人に増えて、開業医や大学の当直支援もあります。小児科開業医も増えて日曜診療をしてくれる仲間も出来ました。一方、私は年を取って色々な病気に罹り、夜も以前の様に遅くまで診られなくなりました。そんな自分を不甲斐ないと思っていた時の表彰です。何か特別な活躍をしたわけではありません。偉い人にも有名な人にもなれませんでした。ただ、「今」に繋げるために地味に頑張ってきただけ。選ばれた理由は分かりません。適任者は他にもっといます。もしかしたら「あいうえお順」だったのかも。でも、誰かが「あいつ結構頑張ってきたじゃん」と思ってくれての表彰であれば、今までの自分が報われた気になります。続けて来られたのは家を空けがちな私を常に励ましてくれたおかみさん、そして仲間たちのおかげです。私はその代表で表彰を受けただけに過ぎず、感謝してもしきれません。まだ、もう少しだけ頑張れそうな気持になれました。表彰以上に嬉しいのは子どもたちからもらうお手紙や絵。それがあるから小児科医はきつい仕事でも頑張れるのでしょうね。






